流浪の月が超ヒットだった凪良さん。
ほかの本も読んでみることに。
そして借りて気づきましたが、この本は流浪の月を読むよりずっと前にネットで見かけて気になっていた本でした。
以下、内容に触れます。
流浪の月と同じく、ちょっと世間的に「変わった」人たちが紡ぐ物語。
ちょっとおしゃまな少女と冷静な青年の組み合わせが流浪の月を彷彿とさせるような。
ただ百音ちゃんは更紗のように、両親の後に出会った大切な人から引き離されることなく、すくすくと育っているようなのでそれがとてもよかったなあ、という気持ち。
でたらめなご飯のメニューを喜ぶところも二人の共通点。
「わたしは不幸かもしれない。わたしはかわいそうかもしれない。
けれどわたしの中には、たった一度の雷鳴が今も響いている。(抜粋)」
ここはしびれましたね。
そうそう、かわいそうかどうかとかより、自分の中の雷鳴を大事にしたい。
「良心の呵責はおまえらの荷物だよ。人を傷つけるなら、それくらいは自分で持て(抜粋)」
とても納得。
人を傷つけておいて、自分はそれを背負いたくないから、という気持ちでの謝罪は
自分のためのものでしかない。
謝ることがすべてにおいて善ではない。
自分が許されたいだけの謝罪は。
「なにかを捨てたからといって身軽になるわけじゃない。
代わりになにかを背負うことになって、結局荷物の重さは変わらない(抜粋)」
なるほどなあ、たしかになあ、と思いました。
捨てると捨てたなりの何かが結局のしかかってくる。
同じ持つ荷物なら自分で覚悟を決めて持とうと思える荷物を背負っていきたいです。
子どもがもうすぐ生まれる、となって、
子どもがいい子かわからない、病気になるか、犯罪をするか、わからないのに人生をささげるのは・・・
という葛藤シーン。それを懲役刑呼ばわりしていたのはさすがに言いすぎかと思いましたが、言わんとすることはとても分かります。
子どもをうむのは私も相当な覚悟がいることなのではないかと思っていて、
それは考えすぎだよって言えちゃえる人の方が楽なんだろうなとも思うし
「みんななんだかんだできてるし大丈夫」で済まされちゃう葛藤であったりするけれど、
わたしはやっぱりそうは思えなくて。
子どもを持つということはハッピーなことだ、というだけのことではないと思うのです。
もちろん幸せもたくさん待っている可能性は高いけれども。
だからその葛藤が書かれていてなんだかほっとしました。
まぁこの人は妻を恋愛対象として愛していなかったりとかいろいろほかの要素もあるんでしょうが。
鬱になった彼氏を支えるのがしんどくなった彼女の真由ちゃん。
でも別れたら「病気の人を見捨てた自分になる」という。
とてもわかる。結局その自分の中の責めを負って生きていかなくちゃいけないから、
どちらにせよしんどい。
共倒れになってもだれも得しないから、離れた方がいいってほかの人にならいえるけど、
自分がその立場だと、結構難しいんですよね。
ほかの理由なら平気なのに、相手の病気とかどうにもならない相手のつらいことが理由だと
いろいろと難しくなっていく。
優しくされたのに嫌な気持ちになるのは間違っているんじゃないかという百音に対して
「間違ってない。百音の感情は百音だけのものだ。誰かにこう思いなさいと言われたら、まずはその人を疑った方がいい(抜粋)」と統理くん。
確かに、道徳の授業とかで正解の感情が決められている感じは苦手でした。
別に先生に指示されたわけではないけれど、世の中的にこう考えなきゃダメなんだろうな、とか思ってしまって。
たしかに理解できない感情の人がいると、なんだよって思っちゃうけど、感情自体を制限するのは変なのかもしれないですね。
行動は、人の迷惑とか考えなくちゃいけないけど、感情はその人だけのもの。
そう子どもに教えてあげられる大人でありたいです。
凪良さん次もよまねば。